密教はインドの僧、龍猛(別名龍樹)によって伝法され、密教の形となって中国に伝えられました。その後、中国の僧、恵果がこれを弘法大師空海に伝授されたのです。
それは延暦二十四年(西暦八百五年)のことで、空海は真言宗第八祖の正嫡として、遍照金剛の号を得るに至りました。
真言密教の基本的な特長は、目的に向かって自らが行動を起こして実践し、二度とない人生を有意義に生き、この世での幸せを得ることにあります。
真言密教の教理は、人間の宇宙観、人生観の至極を窮めていて、生きがいのある人生を生き抜くための大切な要を説いています。だから、それを自分のものとして、生活の中に生かせば、無限の喜びと幸福が湧いて尽きることがありません。
たとえば、眼の前で、子供が転び、泣いているとします。それを見て、手を差し伸べ、子供の腕を取り、『立ちなさい』と叱咤するのは、密教ではありません。密教は、自分も子供と同じように転び、泣いているその子供と視点を同じくし、にっこりと微笑みかけ、『さあ、一緒に立って遊ぼうよ』と誘う。これが密教のスタンスです。決して上から物を言うのではなく、共に歩んでゆく。だから、密教は、一部の出家者だけのものではなく、それを求めるすべての人達のものだといえます。
密教は、求道者自らが仏となり、光源となるのを目的としています。ここにいう求道者とは、何も出家者に限ったことではなく、在家でも、その心さえあれば、すぐに実践できます。むしろ、密教は、俗世で生きるためにある教えだといっていいのです。まずは、煩悩のままに生きることを慎む。かといって極端な禁忌や苦行は、必ずしも良いとはいえません。つまりは、要するに、欲望を適度に節制し、心身を清らかに保ちながら、自省し、他人を傷つけることをせず、常に自分を含めたすべての人が快適に暮らせることを念頭に置いて生きること、それが求道者のあるべき姿勢であり、即身成仏(この身体をもって仏の境地となること)への道なのです。
大切なことは、『今、いかにして、生きるか』であり、今が苦しいのならば、今、救われなければいけない。この世で救われなくて、あの世で救われる筈がない。なぜなら、未来は現在の延長にあるのだから。あの世は、この世の先にあるのです。
人間は、現在を生きています。もしも、現在、過ちを犯しているのなら、今それを悔い改めて、未来へと想いを繋いでいかなければなりません。現在の自分に眼を瞑って、悔いるだけでは、未来はありません。改めるべきところは改め、反省することが大事です。その反省から、すべてはもう一度始まり、人間は学んでいくことができます。後悔するだけで止まってはいけないのです。道は先へと続いています。
すべては今、この瞬間の中に在る。
大宇宙の波動を感じ、溶け合い、大日如来の心を覚ること、それが真言密教の本髄といえます。
弘法大師は、「万燈供養の文」に次のように説かれています。「衆生が心に本来もつ仏となりうる種よ、無明のものをとり去らせたまえ。」
法身説法
森羅万象の働きの中に、宇宙の大生命とも言える「大日如来の慈悲」の営みがあると弘法大師は教えられます。
その慈悲の働きこそは、菩提樹の下で修行したお釈迦さまや、私たちに仏の真理を悟らせようと働きかけている、と説かれます。この働きを「法身説法」と言います。
如実知自心
あるがままに自らの心を観る
全ての存在を在るがままに見て、世の中の実相 (本当の姿) を知ろうとすることが、真言宗の修行であるのです。
真言密教の根本経典である「大日経」の中には、「悟りとは、あるがままに自らの心を知ることである。」と説かれています。
「在るがままに、全ての存在をとらえ、自分の心も在るがままに見つめることから真理を観ることは始まります。」これを如実知自心と言います。
三密加持
仏様と感応する力を加持力と言います。その力について、大師はこのように言われました。
「仏日の影、衆生の信水に現ずるを加と言い、者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。行者もしよくこの理趣を観念すれば、三密相応するがゆえに、現身に即疾に本有の三身を顕現し証得する。」
強い太陽の光が水に映るように、み仏の力が行者の心に現れるのを「加」と言い、修行者が心に、その光を感じ取ることを「持」と言う。この奥深い真理を良く理解し、行に精進すれば、仏の三密と行者の三密が相応して、我々の持っている仏の三つの姿の-仏としての境地を得る。このことを真言の行者はいつも心に留めています。